ヤニス・バルファキス
江口泰子 訳
講談社
2021
book, 2021/09
「ギリシャの経済学者(元財務大臣)が物語(しかもSF)を通じて展開した資本主義社会に関する壮大な思考実験」が概略として妥当すると思います。面白いですが、「MMT(現代貨幣理論)」とかシルビオ・ゲゼルの「減価する貨幣と地域通貨」に関する知識があった方がより面白く読めると思います。なぜならこの本に登場する「資本主義のない市場」への参照できるアイデアとしてすでに存在しているものなので読んでいて説得力が変わってくると思うからです。思考実験はさらに「市場のない世界」と「家父長制のない世界」という参照できるアイデアの存在しないものへと進みます。人間が営めば「市場」は立ち現れてしまうし、人間のあいだの「ヒエラルキー(たとえそれが母系社会だったとしても)」は消え去らない。この先はとりあえず本書を読んでいただくとして、面白いのはこの本が作者によって複雑な入れ子構造を持たされているという点です。アイリスという女性が残したダイアリー(書いたものも録音・録画されたものを含む)を託された男性の〈私〉がアイリスの死後にまとめなおして公開されたものがこの本だという設定がひとつ目で、現在と過去と未来という時間軸があり、こちらの世界とあちらの(もう一つの)世界が交錯するという構造。そして、ここで私が考えてみたいのが最初の部分です。女性の目線で捉えられたものを男性が書き起こすとはどういうことか。なぜその女性が死んだ後ではなければいけないのか。
まず、あらゆる物語は属性を持っています。例えばブラックスプロイテーション・ムービー(アイザック・ヘイズがサントラを担当した黒いジャガーとかカーティス・メイフィールドがサントラをやったスーパー・フライとか)や、数年前に『プラックパンサー』という映画が待望されたのも、アメリカのほぼ全ての映画が白人(特に男性)を主人公に作られていて、それを見ている人は擬制的にその属性(この場合は白人男性)と同一化しなければその物語を享受できないという矛盾があり、その矛盾を乗り越えるためにアメリカの黒人社会から必要とされたということでしょう。『プラックパンサー』はヒーロー物(黒人の主に子供のため)に特化した結果ですね。そして、この属性の問題は男女間でより強く意識されるだろうことは論を俟たないでしょう。文章(物語)はずっと、男性の書き手・男性の主人公・男性の読者という、男性中心主義的な一貫性の中で積み重ねられてきた。女性が書く時も、読む時も子供の時から擬制的に男として書き、男として読むという男性中心主義的な一貫性の中で表現することを強いられてきたとしたら、その女性は真に女として書き、女として読めるかという課題が立ち現れるであろう。というのがフェミニズムが提起する問題なんだと思いますが、これは男女間だけではなく、人種間、成人と子供などなど人間なら誰でも持っている複数の属性が交錯する場面で出てくる問題なんでしょうし、それはおそらく男性中心主義的な一貫性の中で積み重ねられてきた男性性と、ある男性の中に自然にある男性性との間にも立ち現れることでしょう(そういったことを理解するための概念として出てきているであろう「インターセクショナリティ」について考える機会はきっとまた後に出てくると思います)。
というようなことに自覚的な白人の男性が、その属性がもたらすさまざまなヒエラルキーを乗り越える物語を紡ごうとしたら、世界を変えていくために性差を超えた同胞を獲得しようとしたら、それは女性が言葉や声を与えた物語を、男性が編纂するという構造を持たせること以外にあり得なかったのではあるまいかと。そしてそれがなぜその女性の死後なのかというと、人間は生きている限り言動を変える可能性があるが、死後に情報として固定されたものは不変だからということでしょう。ということで、チョーーーホンキだと思います。私有を優先させて発展してきた今の資本主義の後を考えて、実行していこうとしている人たち(このヤニス・バルファキス、バーニー・サンダースからグレタ・トゥーンベリなどなど)が存在しているということに私は希望を見出しています。