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中学生に向けた「自分の意見のつくり方」という原稿

etc., 2019/02

以前、学校図書というところの中学校国語の教科書のデザインをやらさせていただいた後、2015年に「教科研究国語 no.201」という冊子で原稿を書かないかというお話をいただきました。「中学生に向けて、国語の教科書をデザインした立場で」というようなお話だったとおぼろげながら記憶しています。そこで当時全力で書いた原稿を、いつ死ぬか分からないので、学校図書の許可をいただき、ここにアーカイブしておくことにしました。当時一歳か二歳の息子が中学生になった時に読めるものと思って書いたもので、そこをそんな言い切りの仕方していいのか? など、ツッコミどころはあるのですがあえて直さずそのまま再録しておきます。

何回書き直しただろうか? 少なくとも三回は一から書き直しているはずだと思います。最初に書いた原稿は抽象的すぎて中学生には難しいだろうと編集者の益田さん(教科書の編集者でもある)に戻されて、最初の締め切りからズレにズレて、結局三カ月はかかりっきりだったような気が。。。

同じコンセプトの文章でも、アプローチだとか思いやりだとかでこんなにも違う文章になるのかと、とても勉強になったのを今でも覚えていて、以来、何かを話していても常に何通りかが頭に浮かんでくるので困っています。だいたい乱暴な方を選んでいますが。

なぜ今さらこんな原稿を蒸し返すのか。この先世界がどんなことになるのか分からないけれど、なし崩しに全体がどこへやらへ進んでしまう前に備忘しておきたかった。ということに尽きると思います。

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「自分の意見のつくり方」

デザイナーという職業があります。実はこの文章を書いているわたしもデザイナーで、主に本のデザインをしているのでブック・デザイナーという肩書きになります。みなさんが使うことになるのか分かりませんが、学校図書の平成二八年度版の国語の教科書をデザインしました。今回この文章を書く機会を頂きましたので、デザイナーという職業の立場からお話しできることで、みなさんの役に立つようなテーマを考えてみました。

それは「自分の意見のつくり方」です。デザインをする時にはたくさん考えます。今回、教科書をつくる時にもそれが実際にどのように使われるのか想像しながら文字の配置や色をどうするかなど、さまざまなことを考えました。その考えの基になるのが「意見」です。例えば教材本文と脚注を分ける線に色をつけるかどうかという場合、しっかり区別すべきだと考えた場合には色をつけますが、場合によってはそんなに区別しなくていいと考えることもあります。その場合その「〜すべき」と「〜しなくていい」が意見です。それぞれの違いが作業中の判断の違いになり、デザインが変わっていくのです。

わたしは自分がつくる教科書が多くの中学生に使いやすく学びやすいものであって欲しいと「希望」しています。それが教科書が果たす役割だと考えているからです。そしてそれを実現に近づけるために実際に使用されている場面を想像しながらデザインを考えました。この考えの基になるのはつねに「使いやすさ、学びやすさ」が重要だとするわたしの意見です。ひょっとしたら、それは他の教科書が目指している「使いやすさ、学びやすさ」とは違うかもしれません。それはそれぞれの意見から出てくる違いです。それぞれの意見の違いがデザインの違いを生み出します。先ほどの(本文と注を分ける)線にわたしは色をつけるという判断をしました。その方が本文に集中できて読みやすいのではないかと考えたからです。他にも工夫をしたところはたくさんありますが、どうやらわたしの教科書に対する意見は今のところ少数派に属しているようです。それゆえに独自性のある特徴的な教科書ができたと思っています。

では、この「意見」というものをどのように持ったらいいでしょうか? みなさんも自分の興味のある問題やこれからの将来を生きていく上で重要になりそうな問題については、自分で考え、自分で判断して、自分なりの意見を持てるようになりたいと思いませんか?

わたしはそんな時「科学的態度を身につけておく」ということを大事にしています。なぜなら自分の生きている世界や知識を、ある程度客観的に理解するために最も信頼できる方法だと思うからです。

では、「科学的」であるということはどういうことでしょうか? 先ほどわたしは「ある程度」という表現を使いました。科学に「絶対」という言葉は存在しません。科学者はつねに「おそらく〜だろう」といういい方をします。推論をし、仮説を立て、実験や調査などを通して検証をし、それを積み重ねて、より確からしいことに近づいていく。それを「科学的態度」といいます。

そして「科学的」であるためには、「事実判断」と「価値判断」を区別する必要があります。ここでいう「事実判断」とは、実験や調査をして得られたことや経験から「おそらく〜だろう」と判断することです。「価値判断」とは、自分が「希望」することから「わたしは〜したい」と判断することです。

先ほどの教科書の話だと「使いやすく学びやすい教科書がつくりたい」は「価値判断」です。そして「線に色をつけた方が区別しやすいだろう」など、経験や(誰かに見比べてもらってどう見えるかを)ひとに聞いたりして、さまざまな決定をしていくことを「事実判断」と区別します。「価値判断」においてはみんな一緒かもしれませんが、「事実判断」の違いによってそれぞれ全く違う教科書ができるわけです。

客観的な態度が「事実判断」で、主観的な態度が「価値判断」であるともいえます。例えば、先ほど書いた「絶対」という言葉にはそれを使うひとの「希望(主観)」が含まれているので「価値判断」の方に含まれます。「科学的態度」を正確に維持するためには、その「判断」に含まれる「客観(事実判断)」と「主観(価値判断)」を分ける必要があるので、この二つをきちんと区別するわけです。

二つの判断をどちらも持ち合わせているのが人間です。たとえば「恋愛」は客観的(事実判断のみ)では起こりえないとても主観的な世界です。それはとても大切なことです。そういった主観的な世界を大事にしながら、同時に必要な場面で客観的に物事を判断することは可能なことです。どちらも大事にしながら、その二つを区別することができればいいのです。

わたしはこの「事実判断」と「価値判断」の両方を、判断のものさしとして持ち、つねに照らしあわせながらあなたの意見を作っていって欲しいと思います。それはなぜか。それをこれから説明していきたいと思います。

それに当たってこれから少し面倒くさい断り書きをしなくてはなりません。説明のためにこれから取り上げる「水俣病」に関する事実確認に際しては「ウィキペディア」というインターネットの百科事典だけに拠りました。以下〈 〉で囲ったところが引用部分です。本来であればそれを一次資料として、二次資料、三次資料とたどってより確かな情報を得る必要があるでしょうが、それはしませんでした。なぜならこの記事の趣旨は「水俣病について」ではなく、「事実判断と価値判断を照らし合わせないとどういうことが起こりうるか」というところにあるからです。事実、ウィキペディアの当該記事の最初にも〈この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。〉と書かれています。ここでは実例とその時間経過をみなさんと一緒に把握するために、少し紙面を割いて紹介したいと思います。念のための断り書きでした。

ついでに、この記事で「水俣病」に興味を持たれてもっと正確に知りたいと思った方はいろいろ調べてみるといいと思います。ほぼ六十年が経った現在も、この病気を理由としたいわれのない差別や中傷がなくならない社会問題のひとつです。

さて、授業で習ったことがあるかもしれませんしこれから習うかもしれませんが、まずは事実確認をしておきましょう。ここでは、熊本県水俣市の新日本窒素肥料(現在のチッソ。以下チッソと表記します)水俣工場が原因となった「水俣病」を主に扱います。他に「新潟水俣病」と呼ばれる公害病もありました。「水俣病」とは、メチル水銀によって神経細胞が障害を受ける病気で、手足のしびれや痙攣、場合によっては自分の意志で自由に体を動かせなくなるというような障害をも引き起こす公害病です。ウィキペディアによると〈環境汚染による食物連鎖により引き起こされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。〉とあります。〈一九五六年に熊本県水俣市で発生が確認された〉のが最初でした。その後、〈一九五九年七月、熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った〉とあるので、発生が確認された翌々年にはおおよそ原因物質が特定されていたことになります。

しかし、ここでひとつ問題があります。のちに原因と特定されたチッソのこの工場で使用していたのは無機水銀でした。この無機水銀は〈アセトアルデヒドの生産に触媒として使用〉されていました。そして、その無機水銀から〈有機水銀が合成された理論的メカニズムは、今なお完全に明らかになっていない〉のだそうです。そこで、病気の原因物質を排水していると疑われた〈チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し〉、排水と水俣病の因果関係が証明されないので排水を止める必要はないとして、結果的に病気の発見から十一年後の一九六七年まで排水を流し続けました。排水を止めたのは、この一九六七年に〈ようやくチッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に証明された〉からです。そして日本の政府が排水と水俣病との因果関係を認めたのはさらに翌年の一九六八年です。

そして、この十一年の間に本当にたくさんの方が病気で亡くなられました。いまだに病気に苦しめられている方々もおられます。公式認定された水俣病の患者数は二〇〇八年時点で、二二六八人。うち一五八二人は死亡。認定されていない人数は死んだ方も含めると一〇万人以上といわれています。しかし、数字を出してきてそのことの酷さの規模を測ることはあまり意味のあることではないと個人的には考えます。一〇〇人死んでも、一〇〇〇人死んでも、一〇〇〇〇人死んでも、たくさんの方が病気に苦しめられて亡くなっているという時点で甚大な被害には違いがないと思うからです。

さらにこんな話があります。水俣工場附属病院長で水俣病発見者の細川一院長が、水俣病発生確認の三年後の一九五九年一〇月、院内でネコに排水を与える実験をした結果そのネコが水俣病を発症しているのを確認し、そのことを工場の責任者に報告をしましたが、その責任者が実験結果の公表を禁じていたという事実が後年確認されました。

病気発生から一年後の時点で「病気の原因は有機水銀(メチル水銀)だと判明」。チッソの排水が原因だと疑われましたが、三年後の一九五九年には「工場で使用しているのは無機水銀」で、「無機水銀から有機水銀が合成されるメカニズムは分からない」ので「因果関係は認められないから排水を止める必要はない」と会社は「判断」したわけです。そして「工場附属病院でネコに排水を与える実験をして水俣病を発症したのを確認したが公表を禁止」です。

少なくともこの時点で排水を止めていれば、そのあと多くのひとが病気になることもありませんでした。実際には病気発生確認がされた当初から止めることも可能でしたが、排水を止めませんでした。では、なぜ会社は危険な排水を止めなかったのでしょうか?

この時点で「事実判断」はふたつに分かれています。「おそらくチッソの排水が原因だろう」と「おそらくチッソの排水は原因ではないだろう」です。前者の立場のひとは「排水を止めた方がいい」と判断していました。後者の立場のひと(主に会社側のひとたち)は「排水は止めなくていい」と判断していました。ネコを使った実験結果を知っていたひとは前者でありながら「排水を止めない」という判断をしていたことになります。

そしてここからが「価値判断」の出番になります。前にも書きましたが、「価値判断」はそのひとの「希望」を含んだ判断です。では、会社側のひとたちは何を「希望」していたのでしょうか? この場合は間違いなく「会社の利益の追求」でしょう。無機水銀を使わずにアセトアルデヒドを生産することは可能ですが、無機水銀を使った方がより安価に簡単に大量に生産できるので、「効率的」であることを望んでいたかもしれません。

もちろん会社内には「人命」や「人道」を「希望」するひとたちもいて、排水を止めるべきだという「意見」の持ち主もいたはずです。しかし、そういった少数意見は説得されたり、会社を辞めさせられたり、ひょっとしたらお金で買収されたりして、会社の中から一掃されたのかもしれません。そして一〇年以上のあいだにたくさんのひとたちが亡くなって、ようやく会社は排水を止めるという判断に至ったのです。

よくあることですが「事実判断」のみをもって「科学的」だと考えるひとがいます。だから水俣病の場合も無機水銀と有機水銀との「科学的な因果関係が認められない」ことを理由に排水を止めなくていいと「判断」できたわけです。科学はつねに「おそらく〜だろう」という前提付きだということを無視して、その「判断」の背後に利益の追求という「価値判断」が加わっているということも認識できず、その後の影響を「想像」することもしないで、自分は「科学的な判断をしている」と考えるひとたちです。

繰り返しになりますが「判断」の中には「事実判断」と「価値判断」の両方が含まれていて、その二つを区別して考える必要があります。そうしないとなにが起こるかは、ここまで見てきた通りです。

そして「価値判断」にある「わたしは〜したい」という「希望」が「未来」につながっていくのです。そこから「想像」するという行為が生まれ、それが新しい考え方やものをつくりだすきっかけにもなります。最初の教科書のところで書いたように「使いやすい教科書」をつくりたいと「希望」したわたしは、実際に使っている「未来」の中学生の姿を「想像」し、教科書をデザインしました。

また、「価値判断」はそのひとの「価値観」を反映します。ひとの「価値観」が具体的な行動に結びつき、そのひとの人間性を表すとともに、同じ「価値観」を持ったひとをつなげたり増やしたりするきっかけにもなります。

最初の方で「どうやらわたしの教科書に対する意見は今のところ少数派に属しているよう」だと書きました。実際にはこの教科書でやったことが別の教科書に真似されたらいいのにとも思っています。他のひとにわたしの教科書に対する意見に共感して欲しいからです。いまは少数意見(それが特徴を生み出しています)かもしれませんが、それが多数意見に変わって当たり前になってくれれば全ての教科書が今よりもっと使いやすくなると思うからです。ちょっと傲慢でしょうか? でも、そのくらいいいアイデアをつめこんだつもりです。

先ほどチッソの会社内にいた「少数意見」のことを書きました。みなさんも多数決というのをさまざまな場面ですることがあると思います。その時に起こりがちなこととして「多数意見が正しい」とか「少数意見は間違っている」という勘違いです。多数決は、AかB、どちらかに進まなければいけない時に「やむをえず」どちらかを選ぶための手段に過ぎません。

とりあえず「多数意見」を選択してみて、それがうまくいかなかった時に「少数意見」がなかったら、どうなるでしょうか? それが水俣病を引き起したチッソで起こったことです。もし「少数意見」が会社内にしっかり保持されていれば、もともと「多数意見」だったひとが「少数意見」に変わり、「少数意見」が「多数意見」になって、方向転換がもっと早く可能だったのではないでしょうか。「少数意見」は間違いではないという確かな例です。

ひとはさまざまな意見を持っています。その意見はある集団の中で少数の場合も多数の場合もあるでしょう。そしてそれは、将来その割合が変わる可能性のあるものです。そして少数であることは独自性を持っているということでもあります。そのことをしっかり頭において、みなさんはつねに他のひとの意見を尊重してよく耳を傾けてください。そして、自分の意見に至った判断に注意してください。その判断に含まれる事実判断と価値判断を理解してください。そして、できることならその価値判断のところに「ひとの命を大切にする」というものを忘れないようにしてください。

最後に「平等」とは「ひとびとがさまざまな違いを受け入れあいながら、自由に楽しく生きる権利を有していること」だということをつけ加えておきます。

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