works

生存する意識 植物状態の患者と対話する

エイドリアン・オーウェン

柴田裕之 訳

みすず書房

2018

book, 2018/09


この本の眼目をプロローグから引用しますが「物事を認識する能力が皆無だと思われている植物状態の人の15〜20パーセントは、どんなかたちの外部刺激にもまったく応答しないにもかかわらず、完全に意識があることを、私たちは発見したのだ」ということにあります。

ここにも「みんなの当事者研究」のところで触れた「診断」と「みなし」の問題が出てきています。

「植物状態」と診断されると「物事を認識する能力が皆無だと」みなされる。するとその後の扱われ方が変わる。

その典型の一つがこの本の冒頭に、医師がその家族に安楽死を勧めるというカタチで出てきます。

個人的にも、自分がもし生命維持装置がないと生きていけない状態や植物状態になったら──厳密にはこの二つは違うことなのでしょうが──無理に生かし続けてくれなくてもいいと思っていました。それは私も植物状態というのが「物事を認識する能力が皆無な状態」だと思い込んでいた(みなしていた)からです。

「その後の扱われ方が変わる」の別の例も出てきます。家族がいずれは回復するものだと信じて10年以上毎週映画に連れて行った。床ずれを防ぐために19年間ものあいだ1時間おきに体を動かし続けた。そうした中に植物状態から奇跡的に回復した人も出てきて、植物状態で意識があることがどういうことなのかを証言したりもしています。

ここでもう一度考え直してみたいのですが、「診断」と「みなし」を「事実判断」と定義してみたいと思います。「植物状態」であると診断する(みなす)ことは事実を判断することだからです。そしてその後にどういう「扱い」をするかはそれぞれの「価値判断」なのではないかと思います。それが安楽死を勧める医師と、それでも一個人として──ひとりの人格として──その人と向き合う違いを産む。どういう価値観を持っているのか。その様々な例を読書はもたらしてくれるんだと思います。

 

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